SIDE 向坂橙子
私の名前は
「…教授、受け取って下さい」
「チョコレートか…僕は黒羊羹が好きなんだけどな」
「義理チョコではありません!」
私は思い切って彼に「好きです」と告白をした。初めは驚き「僕には細君がいますから」と断った彼だが、私の熱い視線に心揺らぎ情に流され、いつしか肉体関係を持つようになった。私は彼に妻子がいることを知りながら…いわゆる不倫だ。
「妻とは別れる」
その言葉を信じて五年の時が過ぎた。美術工芸大学の大学院生だった私は助教授になりゼミナールで指導する立場になっていた。報われない愛人関係…郷里の母親には申し訳ないが、日陰の石蕗の女に甘んじようと覚悟を決めた矢先の出来事だった。
「橙子、話がある」
私は「あぁ、別れの時が来たのだ」と胸が締め付けられた。ところがその悪い予感は外れた。呼び出された薄暗い昭和レトロな喫茶店で私は驚きで声をなくした。テーブルに薄茶色の紙とボールペンが置かれた。婚姻届だった。
「結婚しよう」
「…教授」
「待たせてすまなかった」
厳夫はとうに五十歳を過ぎていた。熟年離婚だ。私という愛人がいることを黙認していた正妻は、彼の財産の大半を分与して欲しいと弁護士を立てた。けれど彼は弁護士を立てることなく公証役場で証書を交わし、屋敷をはじめ資産の大半を妻と子供に譲った。離婚は静かに成立した。
「こんな狭いところで申し訳ない」
「教授と一緒なら…どこへでもついて行きます」
「ありがとう」
私たちは金沢武家屋敷に程近い、昭和初期に建てられた古い平屋に移り住んだ。白い灯台躑躅が咲く簡素な家だった。ガス電気、上下水は整っていたが、建て付けの悪い玄関のガラス戸は、雨風が強い日はガタガタと不協和音を奏でる。土間には屋根から漏れる雨水を溜める金ダライを置いた。ガタガタピチョンピチョンと、とにかく賑やかで二人でよく笑った。
「風鈴でもつけるか」
庭には菩提樹の小さな林があり、夫のお気に入りの場所だった。縁側の軒先に、鋳物の風鈴を吊り下げた。舌はくるくると回り、涼やかな音色が菩提樹の庭に響く。質素ながら穏やかな日々が続いた。
風鈴の舌が鳴り響く夜。
「っふ……あっ」
家の離れにある奥座敷で、私たちは深く愛し合った。
「橙子の子供が欲しい」
「アッ…」
夫は毎晩のように身体を求め、私はその情熱を受け入れた。昼の彼は穏やかで柔らかな陽光となって私を包み、夜は炎に似た激しさで私を満たした。
「ねぇ、厳夫さん」
風鈴が涼やかな音を鳴らす夕暮れ、夕食の洗い物をしながら夫に話しかけた。
「もし子供が生まれたら…男の子がいい?それとも女の子?」
夫はタバコの煙を燻らせ新聞紙から目を離し微笑んだ。
「橙子みたいに黒髪の綺麗な子ならどちらでもいいよ」
菩提樹の薄山吹の花が咲いていた。「そうだ、夏みかんの樹を植えよう」夫はホームセンターで立派な苗木を買ってきた。「記念樹?」「僕たちの結婚記念だよ」私は、この幸せな日々がいつまでも続くと思っていた。
二度目の熱い夜以来、私たちは「放課後ゼミナール」が終わると奥の座敷で深く繋がり合った。そんな私は金曜日の朝、厳夫さんの遺影をそっと裏返した。胸に空いた穴には隙間風が吹き、それは雨宮右京の熱情だけでは埋められなかった。葉桜が色付き、鮮やかな赤や黄色の絨毯が煉瓦道を埋め尽くす頃、美術工芸大学恒例の学園祭が催される。学園祭の幕開けは、仮装行列。繁華街のメインストリートを仮装で練り歩くパレードは、沿道の声援に笑顔で応え戯けて見せる。この日ばかりは生真面目な教授もたこ焼きのマスクを被って手を振った。その隣で妖怪やリオのカーニバルの衣装に身を包んだ男子学生のグループがサンバのリズムで踊り狂う。日々の鬱憤を晴らす学生たちは車道にはみ出し警察官に引き止められた。赤い棒を振り誘導する警察官の気苦労を考えると、お疲れ様である。「今年も賑やかね…」このパレードは強制参加ではないが、雨宮右京もこの群集の波に揉まれ右往左往していた。「佐々木ゼミナール」の女子学生が、長身の彼のために黒いスーツに黒いマント、赤い蝶ネクタイを鼻息も荒く特注で準備した。それを否が応もなく着せられた彼は色白で薄茶の巻き毛、整った顔立ち……実に見目麗しいドラキュラ伯へと変身した。人との交流が希薄な彼は戸惑っていたが、その姿をカメラに収めようと行き交う人はスマートフォンをカバンから取り出した。広坂通
少し季節外れの鋳物の風鈴が軽く舌を揺らす。それはシトシトと降る雨にかき消されて消えた。私は籐の椅子から立ち上がり、動きを止めた雨宮右京へと近づいた。畳が軋む音が静かな茶の間に響いた。「………そうなの、私には子宮がないの」「子宮、ですか」彼は生々しい臓器の名前にたじろいでいた。私は意地悪な笑みを浮かべた。「子宮がなくても女に見えるかしら?」「え……」「どう、見える?」シクシクと無くした子宮が痛むような気がした。肩までの黒髪から、白檀の香りが匂い立つ。「女に見える?」
八月の下旬。その夜は「放課後ゼミ」は課題の締め切りが迫る者、急遽アルバイト先のシフトが入る者と、皆、早々に席を立ち、午後八時にお開きとなった。テーブルに残されたのは飲みかけのビール瓶やグラス、焼き鳥の串に油まみれの皿と散々な状態だ。予定の無かった雨宮右京はその場に残り、テーブルから洗い物をキッチンのシンクに運び、飲みかけのビール瓶の後始末をする。スポンジに食器用洗剤を垂らし…洗剤…洗剤とは…彼は生まれて初めての食器洗いに手間取っていた。「先生、洗剤はどのくらい付ければ良いんですか?」「あぁ…適当よ、適当。チョちょっと垂らしてゴシゴシよ」「は…はぁ。そうですか」私は縁側に腰掛け、溶けかけた氷に琥珀色のウィスキーを注ぎ、色気のない指でカラカラと混ぜた。雨宮右京がキッチンに立ち皿を洗うと部屋の中の空気が揺れた。スポンジの泡が排水口に流れてゴボゴボと音を立てている。「また詰まったのかしら…いやね、もう」ゴボゴボと音を立てる配管に愚痴を溢しつつ静かな時間を楽しむ。隣には「好きです」と告白してきた男性がいる。私はそのひと時に酔い
両脇が石垣の急勾配。葉桜が枝を伸ばす坂道を上ったその先に、煉瓦造りの美術工芸大学が建っている。一階の駐車場の片隅やその奥の空き地には彫刻デザイン科の生徒が掘り出した石膏作品がゴロゴロと転がり、正面玄関にはレプリカの”サモトラケのニケ”が大理石の台座の上で大きく羽根を羽ばたかせている。私が助教授として勤める染色デザイン科の教室は、味気の無いコンクリート造りの二階にある。キュッキュッと滑りの悪いビニール貼りの床、鈍色の扉のネームプレートには「染色デザイン室」と黒いゴシック体の文字が並ぶ。隣室は油絵絵画室で、真夏になるとテレピン油独特の臭いが立ち込め気分が悪くなった。階段の踊り場からは青々とした芝生広場が一望でき、太い幹のシイノキの樹がポツンポツンと生えているのが見えた。雨宮右京は、そのシイノキの樹の下が気に入っているようだ。他の学生との関わりが希薄な彼は、いつも一人で染色に使えそうな果物の皮を剥いていた。課題を出してから一ヶ月半、何の音沙汰もなく業を煮やした私は、黙々と作業に取り掛かる彼の前に腰に手を当て仁王立ちした。私の顔が逆光で見えなかったのか、見上げた彼の視力が弱いのか、雨宮右京は私を誰だろうという顔をして見上げた。「雨宮くん、あなたいつになったら家に来るの?」「あぁ…向坂先生」「先生じゃ無いわよ、課題はどうしたの!」
それ以来、私の目は雨宮右京の背中を追うようになった。廊下ですれ違う横顔は冷酷なまでに無口で美しく、彫像のようだった。シイノキの枝にロープを張る時はTシャツの裾が捲れ上がり、しなやかな姿態が覗き胸がざわめいた。「…今週も来なかったわね」金曜の夜は彼がいつ現れるかと、ガラスの引き戸がカラカラと音を立てるたびに釘付けになる自分を年甲斐もなく…と失笑した。シイノキの再会から半月経っても彼は現れなかった。 「…今週も来ないのかしら」五月の末、灯台躑躅の白い蕾がふさふさと溢れる夕暮れ。日本酒の一升瓶を片手に雨宮右京がようやく私の家の敷居を跨いだ。「こんばんは、雨宮です」ガラス戸の玄関を入ってすぐ、三和土から杉の段を上がると畳敷の茶の間がある。金曜日の「放課後ゼミナール」では、学生たちが酒や肴を持ち寄り有意義な時間を過ごした。幸い私の家は大通りから入った細い路地の突き当たりにあった。周囲は空き家ばかりで何の気兼ねも要らない。その夜も賑やかで、雨宮右京の少し低い声は茶の間まで届かなかった。
喪中にも関わらず、生命保険会社から年賀はがきが届き苦笑いをした。バレンタインデーには夫が好んだ黒羊羹を仏壇に供えた。赤い南天の実をメジロがついばみ、雪が解け始める頃には一人の朝にも慣れた。吾亦紅の主人が言った「出会うべくして出会う人」にはまだ巡り会えず、鳥の巣頭の男性のことも忘れかけていた。そんな矢先のことだった。「先生!エドガー・アラン・ポーに会った事、ありますか!?」「なに。小説家の話?」染色デザイン科の女子学生が鼻息も荒く助教授室に傾れ込んできた。「違いますよ、漫画の登場人物ですよ!」「ああ、あれね」漫画に疎い私でも知っている美しい吸血鬼の少年たちの物語だ。女子学生が言うには、その登場人物のように美しい男子学生が染色デザイン科に転入してきたらしい。そこで私に「彼」に会ったことがあるかと尋ねてきたのだ。「先生のゼミには…!いませんか!?」ゼミナールの学生の顔を思い浮かべる